本記事ではこのヴェネツィアの中央を流れるカナル・グランデという運河について紹介します。
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どんなところなの?
カナル・グランデを通り抜ける空撮風動画を作成しましたので、まずはどうぞ!カナル・グランデ(Canal Grande)とは、「大運河」という意味です。
ヴェネツィアには道路がないため、歩道を歩くか水路を船で移動する以外に移動手段がありません。そのため、水路が非常に重要になりますが、カナル・グランデは、ヴェネツィアの街を二分するように流れており、人や物資を運ぶ重要なライフラインになっています。
また、運河から見える建物は中世の趣を残しており、まるでタイムスリップをしたかのような気分を味わえることでしょう。
見どころは?
カナル・グランデから見られる名所について紹介します。サン・ジェレミア教会
この教会にはナポリ民謡で有名な「シラクサの聖ルチア」の遺体が安置されています。ルチア(283~304年)は、キリスト教が禁じられていたディオクレティアヌス帝支配下のシチリア島のシラクサにいた女性です。異教徒との政略結婚を拒んだことがきっかけでキリスト教徒であることを密告され、両目をえぐり出されるなどの拷問を受けて殉教しました。
目、視覚障害者、シラクサ、ナポリの船乗りの守護聖人とされています。
遺体は十字軍遠征の際の戦利品として十字軍がヴェネツィアに持ち帰ったものです。
当初は現在のサンタ・ルーチア駅の場所にあった、サンタ・ルチア教会に安置されていましたが、駅の建設に伴って、サン・ジェレミア教会に移されました。
はーちん
戦利品として聖人の遺体を略奪するって、罰当たりな気がするんだけど。。
ヴェンドラミン・カレルジ宮
1481年に建てられたルネサンス様式の建物で、19世紀末には作曲家のワーグナーが晩年を過ごし、ここで亡くなりました。また、1638年からカジノが運営されており、世界最古のカジノとしても有名で、現在も市営カジノとして営業しています。
カ・ドーロ
1430年に建てられた、ゴシック様式の建物で、カナル・グランデに面する邸宅のなかで最も美しいものの一つと言われています。かつては外壁が金箔で覆われていたためカ・ドーロ(黄金の館)と呼ばれていました。
8人のヴェネツィア元首を輩出したコンタリーニ家が所有していましたが、1797年にヴェネツィア共和国が消滅すると、数度にわたって所有者が変わります。そして、1922年、当時の所有者のフランケッティ男爵から国へ遺譲されました。
現在は美術館として一般公開されています。
サンタ・マリア・デッラ・サルーテ教会
15~16世紀にヨーロッパにてペストが流行しましたが、ヴェネツィアは住宅が密集しているため伝染病が流行りやすく、多くの犠牲者がでました。そこで、ペストが収まることを祈願して聖母マリアに捧げるために建てられたバロック建築の教会です。
「イタリアで最も写真が撮られている場所」とも言われています。
4つの橋
カナル・グランデには4つの橋がかかっています。これらの橋について紹介します。リアルト橋
カナル・グランテの橋の中で最も古く、有名な橋です。見た目から「白い巨像」とも呼ばれています。当初は木製の跳ね橋でしたが、火災による被害があるなどで、石造りの橋に造りかえる計画が立てられました。ヴェネツィア共和国は橋の設計案を公募し、アントニオ・ダ・ポンテの案が採用され、着工から4年後の1561年に完成しました。
ぐんそう
「ダヴィデ像」「システィーナ礼拝堂天井画」で有名なミケランジェロもリアルト橋の設計案に応募したそうです。
(リカルト橋のアーケード)
あー坊
橋の両端には店が並んでいて、橋を渡ってる感じがしないですね。
スカルツィ橋
鉄道の駅が近いため、「駅の橋」「鉄道の橋」とも呼ばれます。1858年に作られた鉄製の橋がありましたが、1934年に石造りの橋に作り変えられました。
アッカデミア橋
1854年に鉄製の橋として作られました。その後、1933年に老朽化により木製の橋として作り変えられました。コスティトゥツィオーネ橋
カナル・グランデにある橋の中で最も新しい橋で、2008年に作られたサンタ・ルチア駅の近くにあるガラス張りの橋です。ヴェネツィアの歴史
ここでヴェネツィアの歴史について簡単に紹介します。ヴェネツィアの起源
6世紀中頃、ゲルマン民族の大移動にてイタリアに侵入してきたフン族から避難してきた人々がアドリア海(イタリアの東側の海)沿岸の干潟に住み始めました。足場の悪い湿地帯のためフン族がここまでは追ってこなかったため、避難した人々はそのまま定住するようになったのがヴェネツィアの起源です。
干潟の上にどうやって街を作ったのか?
干潟とは、干潮時に海底に堆積した泥の層が海面から姿を現すようなところで、そもそも人が住むには適さない場所です。では、ヴェネツィアの人々はこのような干潟の上にどうやって街を作ったのでしょうか?
干潟の数メートル下には「カレント」と呼ばれる砂と粘土でできた固い層があります。
まず、その層まで大量の木の杭を打ちます。多い所では1㎡あたり9本の杭が使われました。
そして、打った杭の上に木材で桁を張り、その上に海水に強い石灰岩のブロックを積んで基礎を作ります。こうして作った基礎の上に街を作りました。
あー坊
ヴェネツィアの地下には大量の杭が打たれていることから「ヴェネツィアの下には森がある」とも言われてるよ。
ヴェネツィア共和国の建国
アドリア海沿岸地域はもともと東ローマ帝国の支配下にあったのでヴェネツィアは名目上は東ローマ帝国の支配を受けましたが、実質的な自治権はもっていました。697年にヴェネツィア人は市民の中から初代総督を選出して、都市共和国として自立していきます。こうしてヴェネツィア共和国がはじまりました。
ヴェネツィア共和国の繁栄
810年に東ローマ帝国とフランク王国間で結ばれた条約により、ヴェネツィア共和国は東ローマ帝国に属しつつもフランク王国との交易圏も持つようになり、その後、貿易都市へと発展していきます。1104年には貿易で蓄えた資金でアルセナーレという国営の造船所が設置されました。
ここでは、部品を画一化してライン生産方式をとるなど当時では画期的な造船技術を持ち、大量の商船や軍艦を生産することで、地中海一の海洋国家となっていきます。
10世紀後半にはイスラム諸国とも商業条約を結んでさらに交易を拡大していきます。
そして、11世紀には強力な艦隊を持つようになり、弱体化した東ローマ帝国からアドリア海沿岸の海上防衛を任されるようになります。
十字軍が遠征されるようになると、ヴェネツィア共和国は出港地として船舶を提供し、ヴェネツィアの商人も同行して利益を上げます。さらに1202年に始まった第4回十字軍はヴェネツィア商人を中心に編成され、コンスタンティノープルを占領して商業特権を独占し、植民国家ラテン帝国を建国、そして、クレタ島、キプロス島なども植民地として獲得します。
第4回十字軍(1202~1204年)
ヴェネェツィアの商人とフランスの諸侯が中心となって編成された十字軍です。十字軍の目的は聖地エルサレムをイスラム教諸国から奪還することであったにも関わらず、同じキリスト教徒である東ローマ帝国の首都コンスタンティノープル(現在のトルコのイスタンブール)へ攻め込み、略奪や殺戮、放火など悪行の限りを尽くし、十字軍の中でも最も悪名の高いものとされています。
同じキリスト教徒の都市を攻めたことに激怒したローマ教皇は、十字軍全体を破門にしました。
第4回十字軍は「十字軍」とは名ばかりで、ヴェネツィアの商人が東方貿易を独占したいがために仕掛けた侵略戦争だったとも言えます。
また、この十字軍によって東ローマ帝国は弱体化し、その後、1453年にオスマン帝国によって占領され、滅亡してしまいます。
あー坊
ヴェネツィアは第4回十字軍の後、エーゲ海沿岸まで領土を広げたけど、 まさに弱肉強食の世界ですね。
第4回十字軍で略奪した馬車の銅像などは、現在もヴェネチアのサン・マルコ広場に堂々と飾られているね。
ぐんそう
あー坊
十字軍とは関係ないけど、「東方見聞録」で知られるマルコ=ポーロ(1254~1324年)もヴェネツィアの商人でした。
東方貿易でもっとも重要だった商品はインドの香辛料でした。
香辛料は肉食の多いヨーロッパでは欠かせない食材で、ヴェネツィアの商人は地中海を渡って中東まで行き、アラブの商人から香辛料を仕入れ、それをヨーロッパ中に売りさばいて莫大な利益を得ました。
オスマン帝国との争い
15世紀半ばになるとオスマン帝国が勢力を強め、ヴェネツィア共和国の海外領土が少しずつ奪われていきます。1538年のプレヴェザの海戦でスペイン、ローマ教皇と連合艦隊を編成してオスマン帝国と戦いますが、これに敗れて地中海の覇権を失います。
1571年のレパントの海戦にてスペインと組んでオスマン帝国を破って、地中海の海上権を取り返しますが、15世紀末の大航海時代になると世界の貿易の中心が大西洋側に移り、地中海の貿易都市であるヴェネツィア共和国は衰退していくことになります。
17世紀になると、オスマン帝国が弱体化し、ヨーロッパ諸国がオスマン帝国領に進出するようになります。ヴェネツィア共和国もこれに加わります。1687年にオスマン帝国軍の守備するギリシアのアテネを占領します。
あー坊
この時のヴェネツィア軍の攻撃でパルテノン神殿が破壊されてしまうんだね。
ヴェネツィア共和国の消滅とオーストリアによる支配
1797年、ヴェネツィア共和国はナポレオンに侵略されて消滅します。ナポレオンはヴェネツィアの領土をオーストリアに引き渡したため、以降、ヴェネツィアはオーストリアの支配を受けることになります。
イタリア王国への併合
19世紀になるとイタリア統一運動が盛んになり、1861年にイタリア王国が成立します。1866年の普墺戦争でイタリアが支援したプロイセン(ドイツ)にオーストリアが敗れ、オーストリアはヴェネツィアを手放します。これにより、ヴェネツィアはイタリア王国に併合されます。
観に行くには
アクセス
日本からの最短ルートは、成田空港から直行便の飛行機にてベネチア空港まで行き(12時間40分)、シャトルバスでローマ広場まで行く(20分)ルートになります。空港からは水上バスで行くこともできますが、こちらは60~80分かかります。