モン・サン=ミシェル~「西洋の驚異」と称される最も美しいキリスト教の聖地

キリスト教の三大聖地(※)と並ぶ巡礼地として人気のあるモン・サン=ミシェル
本記事ではその美しさから『西洋の驚異』とも称されるモン・サン=ミシェルについて紹介します。

キリスト教の三大聖地
サンティアゴ・デ・コンポステーラ」(スペイン)、「エルサレム旧市街」(イスラエル)、「バチカン市国」がキリスト教の三大聖地とされています。

どんな施設なの?

外観の特徴

モン・サン=ミシェルの場所や外観を紹介する動画を作成しましたので、どうぞ!!
【空撮風動画】モン・サン=ミシェル
モン・サン=ミシェルは、フランス北西部のイギリス海峡に面したサン・マロ湾に浮かぶ小さな島です。

周囲の海は干満差が最大で15m以上あり、満潮時に島は周囲を海で囲まれますが、干潮時には潮が沖合18kmまで引くため周囲は広大な干潟になります。
かつて、この地を訪れる巡礼者は、干潮時にできるこの干潟を歩いて渡ったそうです。

20世紀初頭から観光地として栄え、島内の修道院まで続く参道「グランド・リュ」には、レストランやホテル、土産屋、郵便局、博物館が建ち並んでいます。



8世紀にキリスト教の聖堂が建てられたのが起源ですが、以降、数百年にわたって増築や修復を繰り返したため、現在残る修道院は主にゴシック様式で建てられていますが、内部はロマネスク様式やルネサンス様式などの中世の建築方式が混ざり合った複雑な構成の建物になっています。


(修道院の内部)

トピック

モン・サン=ミシェルの由来

モン・サン=ミシェルとは「聖ミカエルの山」という意味です。この名前の由来には以下の逸話があります。

モン・サン=ミシェルから東北東に10km程の場所にあるアヴランシュという町の司教であったオベールの夢に大天使ミカエルが現れ、次のように告げました。

「あの岩山に聖堂を建てよ」

ミカエルが指示した岩山は、先住民のケルト人が「トンブ山」(墓の山)と呼んで崇拝していた場所でした。
708年、オベールはお告げ通り、そこに小さな聖堂を建てました。すると、それまで地続きであった岩山は一夜にして海に囲まれた孤島になりました。

モン・サン=ミシェル 尖塔に設置されたミカエル像

モン・サン=ミシェルの歴史

8世紀にオベールによってキリスト教の聖堂が建造されたモン・サン=ミシェルでしたが、現在に至るまでその姿や役割を幾度か変えてきました。

バイキングによる略奪の脅威(8~9世紀)

8~9世紀、モン・サン=ミシェルのあるフランク王国カール大帝のもと、最盛期を迎えますが、9世紀頃から内紛が起き、843年に3つの国に分割され、弱体化していきます。

そんな中、モン・サン=ミシェルはノルマン族のバイキングによる略奪の脅威にさらされます。修道士が内陸に避難したモン・サン=ミシェルは、地元住民の避難所として利用されました。
あー坊
あー坊

9~12世紀に現在のイギリスやフランスなどの西ヨーロッパの海岸地帯で交易や略奪を行い、一部は移住していったノルマン人をヴァイキングといいます。

修道院の設置(10世紀)

やがてノルマン族はセーヌ川沿いに定住するようになりました。
そして、カトリックへ改宗することを条件に、バイキングの首領ロロは「ノルマンディー公」としてフランス王から正式に領土が与えられ、この地域は「ノルマンディ」と呼ばれるようになりました。

モン・サン=ミシェル周囲の地理
966年ノルマンディー公リチャード1世の命により、モン・サン=ミシェルにベネディクト会の修道院が建てられました。

ベネディクト会
キリスト教の西方教会(ローマ・カトリック教会)で最も古い組織。529年に設立され、現代も活動している。西方教会には他に「イエズス会」「ドミニコ会」「フランシスコ会」などの組織がある。

英仏対立の中での修道院の完成(11~13世紀)

11世紀になると、勢力を増したノルマンディー公ウィリアム1世は、イングランドに上陸し、1066年にイングランドに「ノルマン朝」を開きました。以降、ウィリアム1世は「征服王」と呼ばれるようになりますが、イングランドに渡った後もノルマンディーの領土を保有し続けました。

12世紀半ばにノルマン朝が断絶し、プランタジネット朝へ移りましたが、ノルマンディーなどのフランスにある領土はそのまま持ち続けました。

12世紀末にプランタジネット朝のリチャード1世(獅子心王)が亡くなり、イングランドの王権が弱まると、フランス王のフィリップ2世はノルマンディーを征服します。この時、モン・サン=ミシェルはイングランド側に忠誠を誓っていたため、フランス軍の攻撃を受け、1203年に火災で町は焼け、僧院の一部も消失してしまいました。

このように政情が不安定な状況でしたが、この時代のヨーロッパではキリスト教信仰が盛んであったため、モン・サン=ミシェルには多くの巡礼者が訪れました。フランス国王フィリップ2世の寄進によって損壊した建物は修復され、1228年には、「ラ・メルヴェイユ」と呼ばれる居住用の建築棟が完成し、ほぼ現在の姿の修道院になりました。

百年戦争にて城塞として利用される(14世紀)

14世紀になると、これまで対立してきたイングランドとフランスにあるフランス人王朝の間で百年戦争が勃発します。

1328年、フランスのカペー朝が断絶し、ヴァロア朝のフィリップ6世が即位しました。すると、イングランドのエドワード3世が、自分の母はカペー朝からフランス王朝に嫁いできたため、カペー朝の血統を継いでいる自分にフランスの王位継承権があると主張し、1339年に侵略を開始、両国は戦争に突入しました。

ぐんそう
ぐんそう

エドワード3世がフランスを攻めたのは、王位継承権だけでなく、ワイン生産で有名なフランスのボルドーや毛織物産業で栄えたベルギーの経済利権の手中に収めたいという思惑もあったそうです。

開戦当初、イングランドが優勢でした。ところが、ヨーロッパ全土にペストが流行すると、英仏にて農民の反乱が起こり、兵士の士気も下がりました。

そんな中、「オルレアンを開放し、王太子シャルルをフランスで戴冠させなさい。彼をフランスの王にすれば戦争は終わります」という神のお告げを聞いたジャンヌ・ダルクという少女がフランス軍を率い、オレルアンの戦い1429年)でイングランドを破ってフランスを勝利に導きました。

ヘンリー・シェーファー作「1429年5月8日、ジャンヌ・ダルクのオルレアン入城」(1843)
この百年戦争の間、イングランドとフランスの間に位置するモン・サン=ミシェルの修道院はフランス側の城塞として利用されました。

1415年のアザンクールの戦いで圧勝したイングランドはノルマンディー全域を制圧します。しかし、モン・サン=ミシェルはこの地域においてフランス側の最後の砦として1450年にイングランドが撤退するまで、陥落することなく持ちこたえました。現在もモン・サン=ミシェルの入口には、この時イングランド軍が廃棄した大砲とその弾が残されています。

この戦乱を乗り切ったことにより、大天使ミカエルへの人々の崇拝は高まりモン・サン=ミシェルへの巡礼が盛んに行われるようになります。

モン・サン=ミシェルの衰退(16世紀~19世紀)

1516年、ローマ教皇レオ10世とフランス国王フランソワ1世の間でボローニャ協約が結ばれると、フランス国内の高位聖職者の任命権をフランス国王が持つことになります。

すると、モン・サン=ミシェルの修道院長に宗教活動には関心がなく、修道院経営から得られる利益のみを追求する者が任命されました。その結果、修道士たちの士気は著しく低下し、モン・サン=ミシェルは衰退していきます。

フランス革命後、牢獄に(18世紀)

1789年にバスティーユ牢獄が襲撃され、フランス革命が勃発すると、モン・サン=ミシェルの修道院は国に没収されます。

修道士は追い出され、国の管理下に置かれた修道院は牢獄として使われるようになりました。周囲を海に囲まれたモン・サン=ミシェルは、政敵を流刑に処する場所として適していたからです。パリのバスティーユ牢獄にちなんで「海のバスティーユ」とも呼ばれました。

18世紀まで牢獄として使われたモン・サン=ミシェルは、管理が行き届かなくなり、次第に荒廃していきました。

牢獄の閉鎖(19世紀)

19世紀になると、中世の文化遺産を再評価する動きがフランスで起きます。

そんな中、「レ・ミゼラブル」の作者として知られるヴィクトル・ユーゴーは、モン・サン=ミシェルの修道院を牢獄として利用することを批判しました。そして、牢獄の維持費がかさむことなどの理由もあり、時の権力者であったナポレオン3世(ナポレオン・ボナパルトの甥)は、モン・サン=ミシェルにあった牢獄の閉鎖を決定します。

修復作業を経て観光地へ(19~20世紀)

1874年にモン・サン=ミシェルは歴史的建造物に指定され、修道院の修復作業が開始されます。そして、1897年に現在の姿の修道院が完成しました。尖塔の頂点にある高さ4.2mの黄金の大天使ミカエル像もこの時設置されました。

1901年にモン・サン=ミシェルまでの鉄道が開通(現在は廃止)し、観光地として栄えることになります。観光客が増加するとともに修道院までの参道にはレストランやホテル、土産屋が増えていき、現在のモン・サン=ミシェルの姿になりました。


(モン・サン=ミシェル内の参道「グランド・リュ」)

ぐんそう
ぐんそう

ちなみに参道の名前である「グランド・リュ」とは、フランス語で「偉大な道」とか「大通り」という意味なんですが、どう見ても小路ですね。。

島にかけられた橋


(橋から望むモン・サン=ミシェル)

かつて、モン・サン=ミシェルに訪れる巡礼者は干潮時に対岸と地続きなった時に島へ渡っていました。
ところが辺りの海は干満差が激しく、沖合18kmまで引いていた潮が猛烈な勢いで戻るため、多くの巡礼者が潮に飲み込まれて亡くなり、「モン・サン=ミシェルに行くなら遺書を置いていけ」という言い伝えもあったほどでした。

そのため、安全に巡礼できるよう、1877年に対岸の間に地続きの道路が作られ、潮の満ち引きに関わらず渡れるようになりました。

しかし、この道路を建設したことによって潮の流れがせき止められ、その後、100年間で2m程の砂が堆積し、急速にモン・サン=ミシェルの陸地化が進んでしまいました。

そこで、かつての海上に浮かぶ孤島の姿を取り戻すため、2009年に地続きの道路が取り壊され、2014年に現在の橋が建造されました。

観に行くには

アクセス

パリからモン・サン=ミシェルへ行くには、以下の2通りの方法で行くことができます。

1.電車+バス
パリのモンパルナス駅から高速鉄道でレンヌ駅まで行き、そこからモン・サン=ミシェル行のバスに乗り換えます。(約3時間弱)

2.直行バス
パリからモン・サン=ミシェルまで直行バスで行く。(約5時間)

入場料

入場料は11ユーロ、オーディオガイド(日本語あり)は3ユーロになります。観光シーズンは込み合うため、公式サイトから事前購入するのがよいです。