サン・マルコ広場~ナポレオンに「世界一美しい広場」と称賛された広場

本記事では、ナポレオンがイタリアに侵攻した際に「世界一美しい広場」と称賛したと言われている、サン・マルコ広場について紹介します。

どんなところなの?

まずはサン・マルコ広場を紹介する動画を作成しましたので、どうぞ!
【空撮風動画】サン・マルコ広場
サン・マルコ広場は、ヴェネツィア共和国の時代からヴェネツィアの政治・文化の中心として親しまれてきた広場です。

ヴェネツィア共和国は1797年にナポレオンの侵攻によって消滅しますが、その時、ナポレオンがサン・マルコ広場を見て「世界一美しい広場」と称賛したと言われています。

広場周辺にはサン・マルコ寺院のほか、鐘楼ドゥカーレ宮殿などがあり、現在ではヴェネツィアを代表する観光名所となっています。

ヴェネツィアの歴史については、以下の記事を参照してください。

水の都として有名なヴェネツィア。 本記事ではこのヴェネツィアの中央を流れるカナル・グランデという運河について紹介します。 ...


サン・マルコとは?

この広場の名前についている「サン・マルコ」とは、ヴェネツィアの守護聖人である「聖マルコのことです。

9世紀頃のヨーロッパ各国では、その国の守護聖人を定めることが流行していました。

ヴェネツィアでも守護聖人を設置したいという要望が出ていましたが、そんな中、エジプトのアレクサンドリアに埋葬されていた福音記者マルコの遺骸がイスラム教信者に奪われる恐れがあることを知り、828年にヴェネツィア商人がこれを密かに買収してヴェネツィアに持ち帰りました。
ぐんそう
ぐんそう

イスラム教徒にばれないよう、 遺骸をイスラム教徒が不浄なものとして忌み嫌う豚肉で隠して持ち帰ったそうです。

ヴェネツィアに持ち帰られた遺骸はサン・マルコ寺院に安置され、聖人マルコはヴェネツィアの守護聖人とされました。

その後、聖人マルコのシンボルであった翼のあるライオンは、ヴェネツィアの紋章となり、今でもヴェネツィア街にはライオンの像が多数見られます。

ヴェネツィア共和国の国旗

サン・マルコ寺院

サン・マルコ寺院は832年にヴェネツィアに持ち込まれた聖人マルコの遺骸を安置するために建てられました。

この寺院は976年の暴動で焼失して978年に建て直されましたが、さらに11世紀に東ローマ帝国の影響を受けたビザンツ様式で再建されました。
以降、現在まで何度も改築がされたので、ロマネスク、ゴシック、ルネッサンスと様々な建築様式が取り入れられています。

寺院の正面上部には、最後の審判や聖マルコの遺体をアレキサンドリアから運び出してサン・マルコ寺院に収められるまでの様子が描かれています。
この他、第4回十字軍でコンスタンティノープルから戦利品として略奪してきた馬の銅像(寺院に設置されているのはレプリカで本物は寺院内の博物館に展示)や多数の彫刻が設置されています。



寺院内部は、壁や天井には金を使った壁画があり、この他、多数の宝石が埋め込まれた祭壇があるなど外装以上に豪華なつくりになっています。



はーちん
はーちん

ヴェネツィア共和国って、とってもリッチだったのね。

鐘楼

サン・マルコ広場にある鐘楼は、9世紀の頃に見張り台と灯台の役目を果たしていました。
鐘楼は火災や地震によって何度から建て直されましたが、現在あるものは1912年に建てられたものです。

高さは96.8mあり、現在はエレベーターにて展望台まで昇ることができます。
展望台からは海の上に浮かぶヴェネツィアの街を一望することができ、中世の街並みの面影を残す素晴らしい景色が360度広がります。


(展望台からの眺め)

ドゥカーレ宮殿

ドゥカーレ宮殿は、ヴェネツィア共和国時代に総督邸として使われ、国会議事堂や裁判所などの政治的な機能も兼ねた建物でした。

「ドゥカーレ」とはイタリア語で「総督の」という意味で、ドゥカーレ宮殿という名の建物はイタリア各地にあります。その中でもサン・マルコ広場にあるドゥカーレ宮殿が最も有名で、現在は美術館として公開されています。

宮殿内には多数の彫刻や絵画で装飾された豪華絢爛な「黄金の階段」や「大評議の間」、「吟味の間」などが見学できるほか、これらとは対照的なドゥカーレ宮殿に隣接する監獄へつながる「溜息橋」や監獄も見学できます。




(大評議の間)

サン・マルコ時計台

この時計台は1499年に建設されました。 建物中央にある時計は天文時計で当時の船乗りはこの時計を見て、航海にでる時期や潮の干満を確認したと言われています。
また、文字盤は美しい青色のラピスラズリで作られており、その周囲に金の十二宮があしらわれ、芸術作品としても見る価値があります。

1858年に、この時計はヴェネツィア市の公式時計と認定されました。

また、屋上にはムーア人のブロンズ像があり、正午になるとこの像が鐘を打ち鳴らします。




旧行政館

旧行政館もヴェネツィアを代表する建造物です。
この建物は16世紀の初めにルネッサンス様式で建設されました。

現在、旧行政館には、レストランやカフェなどの店舗が入っています。

コッレール博物館

コッレール博物館には14~18世紀頃のヴェネツィアの歴史に関する展示がされており、ヴェネツィア共和国時代の生活様式を見ることができます。

トピック

広場で行われていた公開処刑

サン・マルコ広場の海側の入口にある2本の柱は第4回十字軍にてコンスタンティノープルから持ち帰った戦利品で、現在は多くの観光客がここを通りますが、ヴェネツィア共和国時代、この柱の間にて公開処刑が行われていました。

サン・マルコ広場の鐘楼には5種類の鐘があり、その中には処刑を知らせるための鐘がありました。
また、先に紹介したドゥカーレ宮殿には、処刑の時に使われた剣が展示されています。

第4回十字軍については、以下の記事を参照してください。
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ヴェネェツィア水没の危機

ヴェネツィアの冬の風物詩「アクアアルタ」

ヴェネチアでは11~12月になるとアクアアルタ(イタリア語で「高潮」という意味)という海水面が上昇する事象が発生し、街が海に沈んでしまうという問題があります。

近年ではアクアアルタは年に数回発生しますが、ヴェネツィア市のアクアアルタ予報センターがアドリア海の潮の高さを監視し、アクアアルタ発生の恐れがあると、市民に警報を鳴らして知らせています。

特にサン・マルコ広場はヴェネツィアの中でも海抜が低いため、アクアアルタが発生すると石畳みの地面やマンホールから海水が湧き出て、辺り一面が海水に浸ってしまいます。

海面が上昇し、水没したサン・マルコ広場
広場の水深は10数cmで収まることもありますが、1966年には海水面が194cm上昇し、広場の水深は114cmにまでなりました。そして、この時はヴェネツィアの街の96%が浸水しました。

あー坊
あー坊

1966年に発生したアクアアルタは史上最悪と言われていて、ヴェネェツィアは2日間に渡って停電し、その間、市民は水浸しのまま寒さに耐えたそうです。

観光客にとってアクアアルタは冬の風物詩として歓迎され、長靴を履いて水浸しの地面を歩いたり、水面の上に設置された仮設の歩道の上を歩いて観光しますが、住民にとっては1階に住めなくなったりする等の深刻な問題になっています。
海水が浸水することによって歴史的建造物が損傷するという問題もあります。

アクアアルタ発生の原因

では、なぜアクアアルタが発生するのでしょうか?

まず、ヴェネツィアはアドリア海の北端にあるため、初冬に吹くシロッコという季節風によって、高潮が押し寄せやすい環境にあり、これに低気圧が重なると雨によって水位が増してアクアアルタが発生します。

アクアアルタは20世紀初頭には10年間で数回しか発生してませんでしたが、近年では年に数回の頻度で発生しています。発生頻度が年々高くなっているのは地理的な要因だけでなく、「海水面の上昇」と「地盤沈下」も関係していまます。

記録のある20世紀初頭と比較すると、現在のヴェネツィア周辺の水位は25cmも上昇しています。その内訳は「海水面の上昇」によるものが11cm、「地盤沈下」によるものが14cmです。

まず、海水面の上昇についてですが、これは地球温暖化によるもので、これは世界的に共通した問題です。

これに対して地盤沈下の原因は2つあり、1つは街の重みによる沈み込みです。そして、もう1つの原因は、1950年代~1960年代初頭にかけてヴェネツィアの真向かいにあるイタリア本土のマルゲーラ工業地帯にて工業用水として地下水をくみ上げたことと考えられています。

アクアアルタへの対策「モーゼ計画」

研究によると最悪の気象条件が重なるとアクアアルタによって海水面の上昇は1966年の194cmを超える250cmになるとの試算がでており、イタリア政府も本格的に対策に乗り出しました。

その対策の1つが「モーゼ計画」です。

この計画は、アドリア海の水位がある基準を超えると、ヴェネツィアのあるラグーン(干潟)へ海水が流れ込む3か所の水路をせき止める可動堰(かどうぜき)を建設するというもので、2003年に工事が開始されました。

なお、「モーゼ」という名前は、旧約聖書の預言者モーゼにちなんだものです。

モーゼ計画
計画を巡る汚職でヴェネツィア市長などが逮捕されたり、海水をせき止めることで干潟の水質汚濁を招くと反対する人がいたり、総工費が当初の3,000億円から7,300億円まで膨らみコストがかかりすぎるなどの問題があって、工事の完了は当初予定の2011年から遅れました。

様々な障害はありましたが、2019年に可動堰はほぼ完成し、2020年からの稼働が見込まれています。

ただ、可動堰の寿命は100年程度なので、その間に根本的な解決法を探ることになっています。

観に行くには

アクセス

ヴェネツィアまでのアクセスについては、以下の記事を参照してください。
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