古代オリエント~メソポタミアの歴史(1)

クサビ形文字でギルガメッシュ叙事詩が刻まれた粘土板

 「オリエント」の語源は、ラテン語で“日の昇る方角”を意味するオリエンスという言葉です。そして、「古代オリエント」とは、古代ローマからみて東方のアナトリア(現在のトルコのアジア部分)、シリア、古代エジプト、古代メソポタミア、ペルシアなどの地域で興った古代文明を表します。時期としては、シュメール文化が興った紀元前4000年紀(紀元前4000年~紀元前3001年)から、アレクサンドロス大王が東方遠征を行った紀元前4世紀頃までが該当し、後世のヨーロッパ社会に多大な影響を与える文化を産み出しました。

 そんな古代オリエントの中で、世界最古の文明が興ったと言われる、メソポタミアではどのようにして文明が発達していったのでしょうか?
 「メソポタミア」とは、古代ギリシア語で“川の間の土地”を意味していますが、メソポタミア文明とは、この名の通り、チグリス川、ユーフラテス川に挟まれた地域を中心に発展した文明になります。本記事では、メソポタミアの紀元前2000年までの歴史についてみていきましょう。

紀元前8000年頃 牧畜と農耕を主体とした定住生活がはじまる

 現在のイラク北部にて、狩猟と採集の生活から、牧畜(牛、羊)と農耕(麦類)を主体とした生活が行われるようになったとみられる遺跡が発見されています。(ジャルモ遺跡)この段階の農耕は、灌漑の技術がなく、雨水に依存した天水農業と考えられています。

紀元前6000年頃 灌漑農業がはじまる

 チグリス川中流の地方にて、農耕を行っていた遺跡が発見されています。(サマッラ遺跡)この地域は降水量が少ないため、灌漑農業を行っていたと考えられています。そして、この地域で発達した灌漑技術が次第にメソポタミア南部に伝わっていったと考えられています。

紀元前3000年頃 シュメール人の都市国家が成立

 メソポタミア南部にてシュメール人が農作物を余剰に生産するようになり、農業や牧畜を生業としない神官や戦士、職人、商人等、職業が多様化し、部落はやがて都市国家に発展しました。

紀元前2900年頃 シュメール初期王朝が成立

 ウルウルクラガシュなどの20程度の都市国家が形成されました。各都市国家では、神またはその代理人として王が権力をふるう神権政治を行っていました。また、大規模な治水や灌漑によって、農業の生産性がさらに高まり、交易も盛んに行われました。
 豊かな経済力を背景に、神殿(「ジグラット」と言われます)、宮殿、王墓が築かれ、高度な文明(シュメール文明)が発達しました。「シュメール文明」では、天文学や暦学も発達しており、以下に代表される多くの文化的遺産をのこしました。

クサビ型文字
粘土板にクサビ型の文字を刻むことで、当時の記録が多数残されました。最初に記録されたのは、家畜・穀物の量や貸借などの経済活動に伴う会計帳簿でした。その後、歴史や文学など文字の利用が拡大していきました。「ギルガメシュ叙事詩」という、ウルクに実在した王を主人公とする世界最古の物語もこの時期につくられました。
60進法
シュメール文明では、1年を12か月として扱う方法が発明されており、12の約数や倍数がよく使われました。
七曜制
川の氾濫時期や収穫時期を正確に知るため、月が28日をかけて満ち欠けすることを基準に1週間を7日としました。
・その他、旧約聖書にはシュメール文明をモデルにしたと思われるエピソードが多数記されています。(ソドムの町とゴモラの町、バベルの塔、ノアの方舟 など)この中の「バベルの塔」のモデルは、バビロンにあったジグラットがモデルと考えれらています。
また、旧約聖書に登場するイスラエル民族の始祖であるアブラハムの故郷は、「ウル」とされています。

 4,000年以上も前の時代に、すでにこのような文明があったとは、正直驚きですね。当時の日本はまだ縄文時代ですが、稲作の始まった弥生時代は2,000年後の話です。
 メソポタミア文明はエジプト文明とともに、その後のヨーロッパ文明の源流ともいえる文明で、人類はどのようにして文明を築いてきたのかを知るうえで、非常に興味深いですね。

 都市国家間で繰り返された覇権争いや、他の民族の侵入により各都市国家の勢力は衰え、やがて、メソポタミア北部のアッカド人によって征服されてしまいました。

紀元前2330年頃 世界初の帝国「アッカド王国」の誕生

 メソポタミア北部にあったアッカド人の都市国家キシュの王、サルゴン(※)がメソポタミア南部のシュメールの都市国家を征服、その後、メソポタミア全域の都市国家を統一し、世界初の帝国「アッカド帝国」が誕生しました。

※ サルゴンは歴史に名を残す最初の王と言われています。

 サルゴンはシュメールの都市にアッカド人の長官を送り、統治しました。50年にもおよぶサルゴンの統治により、盤石の帝国が築き上げられました。

→テル・ブラク
現在のシリアにある世界最古の都市の遺構。行政の中心地として栄えました。

 サルゴンの孫のナラム・シンは自らを神と称して君臨しましたが、ナラム・シンの没後、アッカド王国は衰退し、紀元前2190年頃に北東の山岳民族の侵入を受けて滅びました。

紀元前2110年頃 ウル第三王朝の成立

 アッカド王国が滅んだ後、シュメール人都市国家が復興し、ウル・ナンムが起こしたウル第三王朝がメソポタミア南部を支配しました。

ウル・ナンム法典
ウル・ナンム王が発布した世界最古の法典で、犯罪に対する刑罰などが規定されていました。もちろん、この法典も粘土板にクサビ型文字で記されました。また、後の時代につくられるハンムラビ法典にも影響を与えたとも考えられています。

ウルのジグラット
ウル・ナンム王が建造させた現在も残っている数少ないジグラットの1つです。

 これは、イラクのジーカール県ナーシリーヤ近郊にある、「エ・テメン・ニグル」という名の巨大な階段型のピラミッドです。「ウルのジッグ...

 やがてウル第3王朝は、東方からのエラム人の侵入、西方からのアムル人の侵入に悩まされることになります。ウルの王は防壁を築いて対抗しましたが、紀元前2004年にエラム人の侵攻によりウルが陥落し、ウル第三王朝は滅亡しました。この後、古バビロニア王国がこの地域に栄えることになります。

まとめ

 初期のメソポタミアの歴史をみてきました。牧畜と農耕による定住生活から始まり、降水量の少ない南部メソポタミアでは、チグリス川、ユーフラテス川流域を中心に灌漑農業が発達しました。灌漑農業に付随して、測量の技術や天文学、暦学が発達し、高度な「シュメール文明」が生まれました。
 ただ、この地域は外部からの侵入を防ぐ、天然の防壁(山脈や砂漠など)がなく、シュメール人、アッカド人、エラム人、アムル人など様々な民族が国を興しては滅亡してを繰り返してきました。 常に民族間の奪い合いにさらされることで、この地域では、複雑な歴史悲観的な文化が特徴的であると言えます。地形的に他民族による侵略が難しく、同一民族による支配が長く続いたため、比較的安定的に発達し、開放的で楽観的な文化が特徴であったエジプト文明とは対照的であったと言えます。

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